コメント
きみの時間はあの日で止まったままだ。
きみが死んだあとで・・・どのひとにも長いながい時間が流れた。
わたしは、わたしたちは、いったい何をしたのか、そして何をしてきたのだろうか?
何一つ片付いてなど、いない。ずしんと腹にこたえる映画だ。
上野 千鶴子
社会学者
とてもすぐれたドキュメンタリーだと思います。こういうかたちであの時代に死に、あるいは心と体に深い傷を負った若者たちを供養してくださったことに心から感謝申し上げます。
僕もあの時代に友人を内ゲバで二人失いました。死んだのが彼らで自分ではなかったことはわずかな偶然によるものだといつも思っています。はからずも生き延びた以上は彼らのことと、彼らがめざしていたよきものを記憶し、言葉にして伝えるのが、生き残ったものの義務だと改めて思いました。ありがとうございます。
内田 樹
思想家・武道家・神戸女学院大学名誉教授
一人の死が終わりではなく、鮮やかな始まりとして語られる。
山﨑くんの死はその意味で特別でした。
関わった人たちの率直な言葉に向き合って、もう一度私自身の16歳からをたどる貴重な時間になりました。
加藤 登紀子
歌手
あの時代はいったいなんだったのかを丸ごと捉えようとする野心的な力作。突き刺さる言葉がたくさんありました。代島治彦監督の激烈な執念に、心底、感動します。
鴻上 尚史
作家・演出家
映画は記念碑ではない。記念碑は単一の権威ある声のもとに、死者の神話化を促すばかりだが、映画はよりしなやかで、複数の声に満ちている。死者を語る者たちの服喪を鏡として映し出すことさえできる。『きみが死んだあとで』は、忘却への闘いという映画本来の役割を、観る者一人ひとりに想い出させる。
四方田 犬彦
映画誌・比較文学研究
山﨑はなぜ死んだのか。誰に殺されたのか。そして時代はどのように変わったのか。あるいは変わらなかったのか。かっこよかったお兄さんとお姉さんたちは何を語るのか。あるいは何から目をそらすのか。目撃するのはあなただ。
森 達也
映画監督・作家
多声的なインタビューが、代島監督の試行錯誤により「ナラティブ」に昇華されたとき、上下巻3時間20分が一瞬の竜巻のように体内を駆け抜けた。人にはそれぞれ忘れられない死があるように、18歳の山﨑博昭の死は日本人が忘れてはならない「死」であったのだ。敗戦の反芻もないまま、アメリカに盲従してきたわれわれは、米軍の幾多の戦争に加重してきた。ベトナム戦争の加害者になることを拒否し国家権力に殺された若者の生と死を、いま反芻せねばなるまい。原発震災から10年。復興五輪の名のもと被災者や新型コロナウイルス感染者を見殺しにする国家意思を今こそ暴露せよ。
小林 茂
ドキュメンタリー映画監督
香港でも、ミャンマーでも、暴政に対して若者たちが抵抗を続けて、そして不条理に殺害されている。すべて路上で起きたことだ。では、日本はどうなのか。いま世界中で起きる路上の抵抗の原点を、この映画で目撃した。それは「ノスタルジー」や、「学生運動」への懐古ではない。若者たちの怒りや苦さは、いつだって路上から始まって、未来に問いかける。
綿井 健陽
ジャーナリスト・映画監督
50年あまり前に18歳の青年だった者たちが口にする挫折。代島治彦監督の『きみが死んだあとで』は、泥沼化し、世間から乖離していった学生運動の参加者が語る「敗者の歴史」だ。
驚くべきは、彼らの胸の中に、1968年の第一次羽田闘争で死んだ山﨑博昭が18歳の姿のまま息づいていることだろう。無垢な理想をたぎらせた青年が生きるキラキラと美しい青春が、取り返しのつかない参照点のようにして屹立している。証言者たちは、青年が夢見た理想とあまりに違う未来が待ち構えていることを知っている。山﨑の同級生だった詩人の佐々木幹郎が朗読する『死者の鞭』、また、舞踏家の岡龍二が山﨑を追悼する舞踏は、死者が憑依したかのように苦しみを再現する。しかしそれは誰の苦しみなのか。彼らの魂は、死者の鞭に打たれるようにして苦々しくざわめきつづけてきたのかもしれない。
勝者の歴史がもっぱら権力の正統性を述べるのなら、敗者の歴史は死者の慰撫鎮魂のために行われるのがこの国の常ではなかったか。であるならば、この語りの映画もまた、無念を背負って死んだ青年の弔いであると同時に、老境を迎えた友人たちが、50年のあいだ乱れたままだった彼ら自身の魂を鎮めるために紡がれた物語のように思われる。200分におよぶ長編映画だが、代島監督は「これ以上短くできなかった。」という。この映画が、興行性よりも、別の何かを大切にしていることの表れだと思う。
遠藤 協
映画監督